てんこさん 混合性結合組織病(女性)

こんばんはてんこです。メールアドレスは載せないでください。でも、もし連絡とりたい方がいたら、管理人さんをとおしてならおっけーです。

それでは、私が混合性結合組織病と、どのようにつき合ってきたかおはなししたいとおもいます。

 私が物心ついて、体がおかしいと思ったのは、小学2年の時でした。
 家で、祖母と電話しているときに、右手の拳が扉に当たり、丸くて、てかてかしたものができました。(皮膚病のような・・・。)
 これが、なかなか治らなくて、暫く放って置いたら、右手の関節の全部におなじものができていました。両親も余り気にしていなかったのですが、中学になる頃には、顔にも広がり始めました。といっても顔は、赤くて湿疹のような感じで、手にできているのとは全く違うものだったので、べつものと思っていました。
 そこでやっと病院へ行ったのですが、その時は湿疹といわれました。
 でも、中学3年にはかなりひどくなっていて、皮膚科で、有名な医者に行くと、膠原病で全身性エリテマトーデスといわれました。よくわからないので、あまり治療もまともに受けず、高校2年までそのままの生活を送っていました。ただし、汗をかくことや、太陽に当たるのはいけないと言われました。
 高校2年にもなると、顔の常態がとても気になり、ようやく病院に行く気になりました。でも、いくら薬を付けても良くならず、結局社会人になる頃には、治療もしないで、暮らしていました。

 それからは、4年ほど病気のことを忘れていました。でも、ゴルフ場でキャディーをし始めると,だんだん、血小板が少なくなって、2度目の健康診断で、「要再診」とかかれてしまいました。
 それで、親戚に白血病の子がいるし、そうでなくても何か悪い病気か何かにかかったと思い、内科に行きました。
 すると、はじめはいろんな検査をして、何回も病院に行き、採血されました。四週間ほど経って、ようやく自分の病名が、『混合性結合組織病』とわかりました。
 子供の頃から、いろんな事があったけど、これが、病気の元だったのかと、なっとくできました。幸い、病状は軽い方でしたから、日常生活においては,何ら問題もありませんでした。
 ところが、結婚して妊娠したとたん、悪化していくスピードは、出産まで追い付けませんでした。
 
1998年9月
 妊娠二ヶ月の頃、つわりで辛いのですが、吐かなかったので、まわりからは心配されず、仕事もしていたので、かなりしんどかったです。たびたび、有給を使って休んでいました。出産後にお金がいると思って、無理に出勤したりもしました。
1998年10月
 妊娠三ヶ月の頃も、つわりは続きました。そして四ヶ月の頃も・・・。毎月の検診の時に、特別に採血して血小板をはかるのですが、どんどん下がっていきました。仕事は、辞めさせてもらえず、妊娠五ヶ月の頃には、夜まで営業で出かけ、正月頃に辛くなったりしました。幸い、六ヶ月検診の時に血小板の値は平行線をたどったので、先生も安心していました。
1999年2月
 七ヶ月の時検診に行ったとき、血圧が、130ほどあり、自分では「おかしいのかな?」って思いましたが、先生は指摘しなかったので、心配していませんでした。と
ころが、体重は結構増えていたのです。「これはやばいだろう!」と思っていたけど、これも指摘されませんでした。しまいには、ストッキングの上から浮腫を調べて、問題ないと言ってました。
1999年3月はじめ 
 でも、それから半月もしないうちに、歩くのが辛くなり、むくみはすねにふれたものの形が、くっきり残るほどひどくなってました。
1999年3月中頃 
 しまいには動悸が激しくなり、心臓が飛び出そうなほどドッキンドッキンとなってました。
 でも、これくらいはまだ大丈夫と思ってました。八ヶ月頃ちかくってつわりみたいになることがあると聞いていたし・・・。(この考えが間違いだったのです。)
 耐えきれなくなってきて、でもその日は休日(3/22)だったので、「あと一日頑張ろう」と思って、眠れない夜を過ごしました。
1999年3月23日
 七ヶ月の最後の日で八ヶ月の検診にはちょっと早いけど、そんなこと言ってる常態ではありませんでした。
 病院に行って尿をとり、血圧を測りますが、血圧を測った看護婦さんも間違いかと思い、三回計り直しましたが、だんだんと血圧が上がり、三回目には上は170を越えていました。
 看護婦さんはちょっと落ち着きながら尿の結果も見てみました。やっぱりという表情で、「蛋白も降りてるね。」って言いました。辛いのは間違いじゃなかったんだ!と思った瞬間「辛いです。」って言ってました。
 すぐに診察しましたが、「重傷妊娠中毒症です。」って言われ、「医科大への紹介状を書いておきます。ここの病院では難しいので、医大の方で入院になると思います。今日行きますか?」というのですが、いますぐ行っても、うちのこととかあるし、準備しないと遠いので大変だと思い、「明日行きます。」と言いました。そのあと先生が言ったことで、とても気になる一言が・・・。「こういう病気の人は妊娠中毒症にかかりやすいからね。」
今まで、一度も注意してくれなかったのに、発症してから言うなんて!と心では思っていましたが、辛くて反論してられませんでした。そして、血小板も先月は横這いだったのが、ドーンと下がってました。
 紹介状がすぐに書けないと言うので、次の日に行くことになったのですが・・・。
1999年3月24日
 紹介状がどこにあるのかわからず、30分も待たされ、かなり辛かった!
 そして、かかりつけの内科の先生にも紹介状みたいなものを書いてもらう必要があったので、書いてもらいました。それから医大に行ったのですが、
その時すでに11時近くになっていました。よぼよぼのおじいさんが歩くように、少ししか前に進めませんでした。それくらい悪くなってました。
 産婦人科の先生はすぐに診ていただけるように電話しておくとのことでしたが、全く、普通に診察に来た人と同じように待たされました。
 そして、血圧を先に測りました。すると、昨日と同じように、看護婦さんは、何度も測り直してました。
「紹介状の意味がないじゃん!」
と思ってはいましたが、なされるがまま、腕を圧迫されるのすら辛いのですが、言う元気もありませんでした。3回目で、ようやく看護婦も気づき、先生に報告しに行きました。
 一度待合室に待たされることになったのですが、すぐに看護婦が来て、診察室ではないべつの部屋に連れて行かれました。
 そこで、女医さんにいろいろと聞かれ、何度も辛くないかと聞かれました。そして、横になるよう言われ、その姿勢のまま質問は続きました。
 おなかの様子を見るため、最新のエコーを使っての診察となりましたが、新しいからか、ベテランの先生しか扱えないようで、途中で、違う先生にかわってました。先生がいっぱいと集まってきて、いろいろ議論しながら診察して、その会話の中で、子供は元気だとわかりました。でも、私の体はどうなってるのか見当もつきませんでし
た。
 そうしているうちに、私の担当の先生という人がやってきて挨拶しました。優しそうな若い先生でした。
 この間、入れ替わり立ち替わり、先生たちは、私に「辛くないですか?」と聞きました。
 なにしろ初めてのことなので、すごく長く感じました。そして、帝王切開するかもしれないので、レントゲンを撮りに行くことになり、担当の先生と車椅子で移動しました。
 レントゲンは子供に影響がないようにプロテクターを着け、行われました。
 そうして、ようやく婦人科病棟の分娩部に行き、ナースステーション前の部屋のベットへと入れました。
 ほっとするのもつかの間、ベットに寝たきりとなるため、トイレに行かないよう尿道に管を通しました。
これがとっても痛い!つけるときだけでなく。すこしからだをうごかすだけでも痛い!
 極めつけは、血圧が高いと光による視覚の刺激で、云ってしまうらしく、暗幕をひかれて、部屋は昼でも真っ暗な世界でした。(最悪)
そして、帝王切開になるといけないので、食事ももらえず・・・といっても、食欲はありませんでした。
 午後8時過ぎ、主治医でない先生、すなわち教授クラスの先生が来て、「明日、帝王切開で赤ちゃんを出します。」といいました。『絶対にですか?』という問いかけにも、きっぱりと、「はい」と答えられ、自分の辛さよりも、こどもが8ヶ月で生まれ、しかも帝王切開だということの方が辛かったです。3月だから、産まれてきた赤ちゃんが小学校に行く頃のことまで考えると不憫でなりませんでした。あと1週間のばせないかと聞いても、先生は首を縦には振ってくれませんでした。
 そこから憂鬱な時間が始まりました。
 
 重傷なので、1時間おきの血圧測定、そして、「辛くないですか?」の問いかけ・・・。すべて私と子供のためではあるが、眠りかかった頃に起こされるのでこれも辛い・・・。
1999年3月25日
 朝が来ても、暗いままなので、時間がわからず、いったい今何時だろうと考えてばかりいました。私の祖父は全盲なのですが、何となくその気持ちが分かる気がしました。
 そして、昼近く、血小板が非常事態だったので、輸血することになりました。輸血が終わり、剃毛してから、導尿しているのでベットのまま手術室へ連れて行かれました。
 手術室は、清潔のためか隔離されており、小窓から、私は手術室の人達に渡されました。そして、手術の前に、消毒するため、体の前全体に暖かい消毒がされました。
固定するため、手を縛り、今度は冷たい消毒をされました。そのあと、寒さで、歯がガチガチとなり、なかなか「寒い」と伝えることができませんでした。ようやく、布をかぶせたので、ふるえはおさまりましたが、まだ内診があり、手術はいっこうに始まりませんでした。
 そして、午後1時半頃名前を呼ばれ、「手術を始めますよ。」という言葉で始まりました。「麻酔をかけますね。」といいながら、マスクを口に当てられ、3秒もたたないうちに意識が遠のいていきました。その瞬間!
 おなかを切られ、遠のきかかっていた意識が戻り、
「いたい」という言葉を通り越すほどの激痛、というか、心臓を素手で捕まれてえぐられているような苦しさがあり、そのうちに、閉じた瞼の上を手渡しされている子供がうっすらと見えました。
 そして、フェイドアウトのように瞼に感じる光が小さくなっていき、意識がなくなりました。

 それから1時間以上たったでしょうか。

 遠くで、私の名前を呼ぶ女の人の声がするけれど、動くことも返事をすることも辛いので、黙って聞いていました。声がだんだん大きくなって、ようやく小さな声で、「はい。」といえました。
 病室かと思ったらまだ手術室でした。
そしてかんごふさんは、生まれた子が、女の子で、大丈夫ですと言ってました。でも、私の意識を戻すために、看護婦さんが、「女の子が産まれましたよ。」と、意識が戻りかけていたときから言ってたので、わかってましたが・・・。
 そして、また小窓を通り、病室へ帰っていきました。でも、ここからもまだ、辛さは続くのでした。

 病室に帰れても、子供の顔を見ることもできず、血圧も高いままなので、また真っ暗な部屋におとなしく寝ていなくてはなりません。とはいえ、おなかを切っているので、ぴくりとも動くのは辛いのですが・・・。
 それに、血小板が無くなるのは大変だから、もう一度輸血されました。
 先生も何度も来て「頭は痛くないですか?」と聞き、看護婦さんも相変わらず1時間おきに、血圧を測って行きました。 枕が堅くて、寝心地が悪く眠れ無いと思ったら、これが頭痛だったのです。1週間経つまでわかりませんでした。ずっと枕のせいだとおもってました。(今じゃ笑える話)
 そして、オムツみたいなものをして、産後の悪露を看護婦さんに変えてもらってました。点滴もいっぱいされて・・・、でも一番辛いのは、痛み止めの薬がきれたとき!
 声にならない小さなうめき声で、「いたいよ〜」というのですが、なかなか気づいてもらえないし、3時間経たないと鎮痛剤は出せないと言うし、「もうちょっと待ってくださいね、。」と看護婦さんに言われると、その「もうちょっと」が長く感じるので、時間で言って欲しいと訴えてしまいました。性格なんでしょうが・・・。
 そうして、3月25日は過ぎていきました。子供のことは心配じゃなかったの?と思うでしょうが、今までおなかにいて、とっても元気だったのと手術室で、瞼の向こうにいる赤ちゃんを見れたのと、あと、母親の感とでも言うのでしょうか、うちの子は大丈夫だって思ってました。早く会いたいなって思ってました。
 3/26も、おなじようでした。そして、29日まで、高血圧や頭痛やむくみなどは続き、30日!
ようやく我が子を見る日が来ました。でも、私の体がまだ完璧じゃないので、車椅子で小児科病棟へ行き、未熟児室のガラス越しに、自分の赤ちゃんを見ました。
 「えっ。こんなに小さいの?」と思うくらい小さく見えました。でも、ガラス越しで、しかも保育器の中にいるので、ハッキリと顔を見ることができません。感動と言うよりも、悲しさでいっぱいでした。

 翌3月31日、未熟児室にはいることが許され、触ることができると聞いて面会時間までわくわくしました。おなかの傷は痛いけど、待ってる時間も長いけど、触ることができると思うと何とか我慢できました。
 そして、面会時間の時、中にはいるまで、いろんな手順があって、まず使い捨ての帽子をかぶります。次に割烹着を殺菌クローゼットからだし、あまりべたべた触らないように着て、手を消毒殺菌用のジェルで洗い、自動ドアを足ボタンを押して開け、入ります。入ったらまた手洗いをします。そして、保育器の前に着いたら、消毒液を手に刷り込んで、肘で手を入れる扉のボタンを押して開け、おそるおそる体をなでました。このときすでにうるうる涙がこぼれそうでした。
 ちっちゃいけど、生きてる!会えて良かった!
うでは大人の指くらい、てのひらは親指の爪ほど、お人形のような我が子。生まれたときは1256?でもこのときは、体重が落ちていたので、900?台の重さでした。

 このあとも、まだまだあたしの方は元に戻らず、クスリで血圧を下げ、頭痛はなかなか治らず、血小板も増えたり減ったりを繰り返しました。
 そして、退院できたのは、1ヶ月後の4/23でした。その後は経過も良く普通の暮らしをしていますが、子どもが保育器にいたので、毎日お乳を絞って持っていき、退院したら、お乳がなかなか飲めなくて、結局絞って冷凍し、忙しい毎日でした。よくからだがついていけたと思います。
 最近の方が、悪いくらいです。ストレスもあると思います。子どもが家に帰ってきてから、主人の両親と同居を始めたのです。気を使うのであまり良くないとは言われていましたが、今になって出てきたのかもしれません。あと、濃い味好きの家族なので、この食生活も影響してるみたいです。退院前に栄養指導されているのですが、なかなかむずかしいですね。

 病気になっても子供は産めます。
でも、私の場合は、結婚してすぐ子どもができたので、丁度新しい仕事を始めたばっかりの頃とかさなり、それも、病気を悪化させる元だったのでしょうね。
 病気ってほど、悪い状態じゃなくても用心すべきでした。そして、お医者さんにもあまり恵まれなかったと思います。結果的には、良いお医者さんに恵まれましたが、いろいろと聞いてみないと、なかなかお医者さんも教えてはくれないものです。
初めてのお産の時は、しつこいと思われても聞きまくりましょう。
 そして、産後もとても大事です。健康な人は、直ぐ仕事を始めても平気なようですが、ほんとは、健康な人でも、休んだ方がいいのですから、病気があったらなおさら体を休める必要があっるんですよね。
これには、家族の理解も必要ですが、私のように同居となるとそれもかなり難しいので、落ち着くまでは離れて暮らすのが良いのではないかと思います。
 こうして考えてみると、私の場合は、ついてなかったと思います。悪い方ばかりを選択してました。
でも、今は何とか生きています。
見かけは健康優良児!

 簡単に書いたつもりですが、長くなってしまいました。何か参考になると良いのですが。子どもが欲しい方!あきらめないでください。注意すれば普通に産むこともで
きます。
 私も次は普通に産むことを目指します。今回のようなことはまれな方なんだそうです。病気じゃない人でも妊娠中毒症がひどくなると、こうなるとも言ってました。
 そして、一度、私のような状況になると、次の子を産むときも60%の確率で、妊娠中毒症にかかると言われているそうです。
 だから、知らない人達のために、私のようになって欲しくないので、語らせていただきました。
 希望を持ってください。

 私も、次こそは、普通分娩できるよう、気をつけたいです。

 


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